We LOVE 石川

新旧の文化に彩られた石川県

石川県は日本本州の中央に位置し、日本海に面した県です。中部地方ですが、特に新潟・富山・石川・福井を指して北陸地方と呼ばれています。
江戸時代より加賀藩が学問や文学を奨励していたこともあり、漆器や織物、金箔等、高い技術力が用いられた伝統工芸が、今なお人々を楽しませ魅了し続けています。また、温泉地や自然豊かな景勝地も多く、国内外を問わずたくさんの旅行客も訪れます。
陸の玄関口ともいうべき金沢駅は、現在は大きな総ガラス製の「もてなしドーム」と木製の「鼓門」を装い、2011年には米国『Travel+Leisure』上で「世界で最も美しい駅」の一つに選ばれました。

県の人口:約116万人(2013年)
県鳥:イヌワシ
県の木:あて(能登ヒバ)
郷土の花:クロユリ

石川県の景勝地

兼六園

兼六園は、江戸時代より加賀の歴代藩主によって長い年月をかけながら造られていった庭園です。居間に座して見て楽しむのではなく、所々に設けられた茶屋などに立ち寄りながら、全体を遊覧する「廻遊式」の庭園になっています。藩主たちは神仙思想に基づき、長寿と永劫の繁栄を投影しながら築き上げていったといわれています。

金沢城

金沢城は犀川と浅野川に挟まれた小立野台地に築城されました。キリシタンゆえに豊臣秀吉より追われた高山右近を、前田利家は厚く受け入れ、尾山城の改築を命じました。城名も金沢城と改め拡張・整備が進められ、三代目藩主・利常のときにほぼ現在の形になったといわれています。
城とはいっても、現在の金沢城には天守閣が存在していないため、その外観はとてもすっきりしたものになっています。実は天守閣に関する絵図や天守台などが残っておらず、「幻の天守閣」ともいわれているのです。古文書によると、天守は慶長7年に起きた落雷による火災で焼失したとされ、以来建設されておりません。しかし一度城郭に足を踏み入れ、重厚な石垣や復元された五十間長屋を眺めると、兼六園とはまた一味違う金沢文化の中心たる勇壮な風格を感じさせられます。

ひがし茶屋街

東茶屋街は、浅野川の東に位置するところからつけられた名前です。江戸時代、金沢城下が栄えていく中で、犀川・浅野川の界隈が茶屋でにぎわい、やがて犀川の西と浅野川の東に茶屋街として整備されていきました。金沢の文化と共に、当時の面影を今にも残しています。

浅野川大橋

金沢に住む人にとっては馴染み深く、生活の一部(通り道)ともなっているのが浅野川大橋ではないでしょうか。この大橋の歴史は古く、起源をたどると江戸時代初期にまでさかのぼると言われています。現在の浅野川大橋は1922年に建設されました。曲線を描くことで荷重を支えるアーチ構造となっています。歩道も設けられているので、ゆっくり歩いて渡ったり、また茶屋街のほうから眺めてみると大正浪漫の風情を感じられる素敵な場所であります。

河田山古墳群

小松市東部の住宅地・国府台は整備されたきれいな住宅地ですが、昔は丘陵地で数多くの古墳や弥生時代の集落跡がありました。62基におよぶ古墳のうち、9基が現状保存されています。その中でも調査中に注目されたのは、丁寧に加工され凝灰岩を積み上げて造られた「切石積横穴式石室」をもつ古墳(9号墳、12号墳)でした。この古墳はアーチ状の天井をもつ大変貴重なもので、団地工事の範囲に入っていましたが、公園内に移設・復元され見学できるようになりました。

木場潟公園

かつて石川県には5つの潟がありました。とくに今江潟、木場潟、柴山潟は加賀三湖と呼ばれていましたが、干拓などにより今江潟はなくなり、柴山潟も1/3の大きさになりました。唯一木場潟はそのままの姿で残されました。木場潟公園は木場潟の周囲を整備してつくられた公園で、大きく四つの緑地が設けられています。さまざまなイベントが行われ人々の憩いの場となっていますが、豊かな水生植物や水鳥たちの憩いの場ともなっています。

尾山神社

百万石という最大の石高を誇った加賀藩の祖・前田利家を祀り建立されたのが尾山神社です。二代目藩主であった利長は利家の死後、その霊を祀ろうとしましたが、徳川家との縁があるとはいえ外様大名であるため、公然とはしづらい立場でありました。そこで利長は、越中国の物部八幡宮・榊葉神明宮を勧請して(いわゆる分社として)卯辰八幡社を建て、ここに合祀したのです。
廃藩置県ののちも祭祀は続けられ、しばらくして新たに社殿を創建する計画が立てられました。そして明治6年、金沢城の金谷出丸の跡地に新たに尾山神社として建立され現在にいたっております。明治8年のときに建設された神門は和漢洋の独特な三様式であり、金沢のシンボルの一つとなっています。

白山

日本三大名山にも数えられる、言わずと知れた霊峰・白山。最高峰である御前峰の標高は2,702mに達します。高山植物にも恵まれ、色とりどりの美しい花が登山者の疲れを癒してくれます。かつて鉄道車両の名称にもなったライチョウも有名ですが、現在白山では、ほとんどその姿を確認することはできません。白山は信仰の山としても有名であり、金沢教会にとっても壮年・青年・学生たちが毎年のように登山をし、とても親しみ深い山でもあります。

石川県ゆかりの人物

石川県には様々なかたちで人々の心に深く感銘を与えた人物がいます。すべてではありませんが、数名の方々をご紹介いたします。

中谷宇吉郎 なかや・うきちろう

「雪は天から送られた手紙である」

中谷宇吉郎氏は1900年に石川県江沼郡片山津町に生まれ、1922年に東京帝国大学理学部に入学されます。イギリスへの留学の後、32年に北海道大学の教授になった頃から雪の研究を始められました。人工雪の精製にも世界で初めて成功し、研究の過程で浮かび上がった仮説を確かめていかれたそうです。
著書「雪」の中では、雪と人生との間の深い交渉に驚かされたことを明かし、雪と人々との暮らしを描くとともに、自然の中で創られる雪の奥妙さが綴られ、専門家ではない一般の人々にも興味を持たせられるよう著されています。
加賀市に「中谷宇吉郎 雪の科学館」がありますので、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。

八田與一 はった・よいち

「嘉南大圳の父」

八田與一氏は1920年から1930年にかけて台湾の嘉南平原に、巨大な烏山頭ダムと給排水路を建設し、不毛な土地と言われた嘉南が一大穀倉地帯となる礎を築いた人物です。またダム建設にあたり、働く人々が安心して仕事ができるように(家族と一緒に住めるように)、烏山頭周辺に学校や病院等もつくりました。八田氏は台湾の人々からとても敬愛され、歴代総統もその墓前に参拝に来られるそうです。

西田幾多郎 にしだ・きたろう

「西田哲学」

1870年石川県河北郡に生まれ、若い頃から波乱万丈な人生を送り、激動の時代の波風を受けながら思索と学問を重ね、哲学を究めていった人物です。
東洋哲学(仏教思想)と西洋哲学を融合させ、純粋経験にもとづき独創的・宗教的な見地から根本を見つめていった西田哲学は、一部批判をあびながらも多くの人々に影響を与えていきました。西田氏の著書である『善の研究』(1911年)は、明治・大正の学生の必読書でもありました。京都にある「哲学の道」は西田氏が思索に耽りながら歩いた道であることに由来しているそうです。

小野太三郎 おの・たさぶろう

「社会福祉事業の源」

小野太三郎氏は1840年、石川県金沢市中堀川町に生まれ、24歳の時に飢饉によって困窮した人々に自宅を開放するという自費での救護活動を始め、やがてはあらゆる困窮者の救護活動を行なうなど、人助けに奔走し、生涯を社会福祉活動に捧げられました。

鈴木大拙 すずき・だいせつ

「大功は拙なるが如し」

鈴木大拙氏は1870年、石川県金沢市で生まれました。石川県専門学校、第四高等中学校と学業を修めていきますが、学費が払えず一時中退した後、友人のいる東京で再度学校に入るも、ここも中退し鎌倉の円覚寺に参禅しました。
円覚寺では今北洪川氏や釈宗演氏に師事し、釈宗演氏の選を受けて渡米。米国の出版社で多くの仏教関係書籍の出版にかかわります。活躍していく友人たちの中で取り残されたかのような思いも抱き、苦悩も多かったそうですが、数多くの著書、米国各地での講義 は禅思想・仏教文化が世界的に広まっていくきっかけとなり、様々な人に影響を与えていきました。

中西悟堂 なかにし・ごどう

「あるがままの自然を親しむ」

中西悟堂氏は1895年に金沢市に生まれました。悟堂という名は1911年に僧籍についた時の法名です。1934年に日本野鳥の会を設立したことで有名ですが、会の設立以前には野鳥以外に昆虫等の観察もおこなったりと、自然を親しんでいました。また鳥類の研究に取り組む中で、籠の中で飼ったりすることを嫌い、自宅の中でも放し飼いにするほど、”野鳥”として鳥を愛した人物でありました。

松田権六 まつだ・ごんろく

「漆聖」

松田権六氏は1896年に金沢に生まれ、兄や従兄弟が漆芸に従事する中、自身も幼少より漆を学んでいきました。若くしてその実力を開花させ、東京美術学校の卒業後から松田氏の存在は美術工芸界で大きなものとなっていきました。戦火の中でも珠玉の作品を残しつつ、伝統工芸の復興や文化財の保護、後進の育成に尽力されました。
一つの技法を学べば何年もその技法を研磨したり、満点評価の卒業作品を「美術に満点はない」とし減点を訴えたという内容は、松田氏の人柄を感じられるエピソードとなっています。

木村栄 きむら・ひさし

「Δφ = X cos λ + Y sin λ + Z」

19世紀末、地球は地球儀のように完全に固定された軸を中心に回っているのではく、一定の周期でコマの首ふり運動のような動きをしていることがわかりました。この事実は天文観測への影響もあるため、自転の正確な動きを知る必要がありました。その後、世界各所に観測所が設けられ調査が始まったのですが、日本の観測所だけ誤差が大きかったため、日本は精度が悪いと評価されてしまいました。
しかし、日本の観測所所長を務めていた木村栄氏は、機器の故障等が見当たらないのを確認し、精度の問題ではなく自転軸のブレ以外に、何かもう一つの原因があると考え、1902年「Z項」についての論文を発表しました。それまでの公式にZ項を導入してみると、日本の観測誤差が小さくなるどころか、世界各所の観測精度が上がったのです。これは天文学の発展に貢献する重要な発見でありました。